左岸には樹木が多くなってきて森林に変わり、別荘は少なくなってきた。
 遠くのほうに大きな橋が見えてきた。この橋は第二ボスポラス大橋と呼ばれている。別名はファティフ・スルタン・メフメト・ブリッジ(Fatih Sultan Mehmet Bridge)という。
 トルコに来て二日目の夜に、大型バスに乗ってアジア観光に行ったとき、一度渡った橋である。
 橋の長さは1090メートル、巾39メートル、8車線あり、道路面は海抜64メートルで、橋の高さは105メートルある。ヨーロッパ側の道路はE80(ヨーロッパ 80)、アジア側はA1(Asian Highway Route 1)と呼ばれる。
 交通量は一日当たり15万台。日本の建築会社がトルコに技術協力して1988年に完成した。
   
 あの夜、私は海の上を行く船舶の明かりを見て、息子にも見るように勧めたが、息子は私の話を聞かなかった。
 息子は今は何をしているのかな?
 息子は黙って景色を見ている。
 息子は息子なりの方法で旅の楽しみを享受している。
 遊覧船がだんだん大橋に近づくと同時に、左岸の山腹に築かれた石造りの城塁(じょうるい)がどんどん大きくなった。
 私は立ち上がって、忙しく写真を撮った。
 ガイドブックによれば、一般の客船はこの城砦(じょうさい)で停泊し、観光客は下船できる。城砦に登る人もいる。しかし私たちの乗った船は、大橋の下を通りぬけると、方向を変えて西に戻り始めた。
 もしも、私が旅行社の社長の話を聞いていれば、ボスポラス海峡の終点までのキップをくれたかもしれない。それだったら、私たちも下船できたかもしれない。帰国してから現在までずっと、魅力的な冒険のチャンスを逃したような気がしている。
 ガイドブックは船で1時間40分の行程も、自動車だったら30分だといっている。自動車に乗ってイスタンブールにもどるのにたいした時間はかからない。たかだか30キロ。私たちには充分な時間があったのに。
   
 ボスポラス海峡は、左岸のルーメリ・ヒサール(欧州城塁)と右岸のアナドル・ヒサール(アジア城塁)に挟まれている。
 黒海からマルマラ海(地中海)までの長さはわずかに30キロ、両岸の距離は短くて、最も狭いところで660メートルという。
 このあたりがそうだ。
 アナドル・ヒサールはもともとトルコによって建築されていたものだったがコンスタンチノープルを攻略すると決意を固めたオスマントルコのメフメト二世はたった数ヶ月を要しただけでもう一つ対岸に石造りの要塞を造り上げた。
 それがルーメリ・ヒサールだ。
 城砦の大きさと構造を考えると、驚くような突貫工事だった。
 現在イタリアに住んでいる、日本人の塩野七生という有名なローマ帝国の歴史を研究している小説家は、若い頃に『コンスタンチノープルの陥落』という小説を発表している。
 その中に以下のような話が紹介されている。史実なのか小説としての脚色がどの程度か分からないのだが、ともかくも以下のようだ。
   
 トルコがその頃はコンスタンチノープルと呼ばれていた都市(現在のイスタンブール)の包囲を目論んでいたとき、キリスト教国家のベニスはそれまで通り、商業活動として商船を使って黒海沿岸から小麦をイスタンブールに運ぼうとした。
 しかし、商船がボスポラス海峡を通過しようとこの二つの城砦の間にさしかかったとき、トルコ兵が猛烈な砲撃を仕掛けてきた。
 商船は沈没し、船乗りの中には命からがら岸辺に泳ぎ着いた者もいた。ところがみなトルコ兵に捕まって、船長は串刺しの刑、30人ほどの船乗りたちは胴体ぶった切りの刑にされてしまった。
 以後トルコはこれまでの協定を破りベニス・ジェノバ商人の通商活動を妨害し、コンスタンチノープルは食料の入手にも困難を来(きた)すようになった。
 その後、金角湾の封鎖が破られ、マルマラ海金角湾沖に現れたトルコ海軍とコンスタンチノープルを助けに来たベニス・ジェノバ等キリスト教国の艦船との海戦が行われた。
 コンスタンチノープル側の沈没したガレー船などの水夫40人あまりは岸に泳ぎ着いたもののトルコによって惨殺され、これに対する報復としてコンスタンチノープル側は城内のトルコ人260人あまりを城壁の上に引き出して斬首したのだった。
   
 欧州側のルーメリ・ヒサールには3つの大きな円柱型の城楼(じょうろう)があって、その他小さな城楼もたくさんある。城楼と城楼の間は長城になっている。城砦は山腹に建てられているので、生い茂った森をバックにして威風堂々としている。
 その欧州側に比べて、アジア側のアナドル・ヒサールは小さい。
 船は第二ボスポラス大橋をくぐり抜けてから、船首をイスタンブールに向けアジア側の岸辺に沿って航行した。
 そこでこの時初めて、2、3階建ての民家の家並みに隠れるような、背の低いアジア側のアナドル・ヒサールを見ることができたのだ。
 アナドル・ヒサールは平坦地に築かれている。欧州側の城砦ほど高くはないし、威圧感もない。
   
 前述の塩野七生(女性である)について簡単にご紹介する。
 若い頃イタリアに滞在帰国後、「ルネッサンスの女たち」で小説家としてデビュー。以後生活の場をローマに移し、小説・エッセイも書くが、なんと言っても毎年一冊のペースで発表されたローマ帝国の歴史書(単なる歴史書ではなく、小説家としての観察眼による考察が魅力的 )〈ローマ人の物語〉15巻は圧巻である。
 2000年にはイタリア共和国功労賞を受賞している。日本の数々の文学出版関係の賞は言うに及ばずである。
 ローマ帝国の領土は英国を含めた西ヨーロッパ、地中海を囲んで北アフリカ、エジプト、トルコ、ギリシア、ユーゴスラビア。
 東方での境界線はペルシャとしのぎを削るものの、それ以西の中東地域をレバントと言うが、シリア、ヨルダン、イスラエルなどはローマ領だった。
 この様な強大なローマ帝国がカルタゴを初めとして周辺諸国や蛮族?(ローマ人にとっては)を殲滅(せんめつ)あるいは同化してできあがっていく有様を、欧米人ならば高校で2年をかけて勉強するのだそうだが、何ひとつ知らない日本の普通の人に、魅力的な皇帝たちの物語とともに、紹介してくれる。
 この15巻以後も、ローマ帝国以後の歴史についての執筆は続いている。
 それらの著作を読めば、私のようにローマ遺跡を見に行きたくなるのは必定かと思う。

左岸に現れたのはオスマントルコがコンスタンチノープル攻略前に数ヶ月の突貫工事で築いたルーメリヒサールだ。

ルーメリヒサール要塞の後ろは日本の技術援助で1988年に作られたボスポラス第二大橋だ。長さ1090メートル。道路面は海抜64メートル。イスタンブールからカッパドキアに向かったときに渡ったのはこの橋だった。

ルーメリヒサールには三つの大きな円筒形の城楼があり、その他の小さい物見塔とが連なってできている。対岸にあるアナドル・ヒサールとで海峡を封鎖するのが目的で後で作られた。

遊覧も佳境に入った。ボスポラス大橋とルーメリヒサールの二つの姿を撮るのに観光客は大忙しだ。

海峡もこの辺りの巾が最も狭く660メートルだという。コンスタンチノープル包囲戦では黒海から小麦を運ぶ商船が城砦からの砲弾の猛攻で撃沈されている。

第二ボスフォラス大橋はファティフ・スルタン・メフメト橋という。八車線で一日の交通量は十五万台。ヨーロッパ80とアジアハイウェールート1が繋がる。

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