ハーレムの中に入ると、私は休憩したくなった。
しかし息子は一カ所にとどまるのを嫌がった。
床には丁寧に作ったとは思われないような雑な作りの石板が敷き詰めてある。建物と建物の間の廊下には天井があって、そのため薄暗い。
廊下の両側の建物の使用目的は分からない。
外の世界からやって来た人がどんどんハーレムの中に引き込まれていき、ちょとやそっとのことでは外に出られない。
昔の人も今の観光客も案内無しでは迷ってしまう。
火事の跡の再建や、何回もの拡張が行われたためだろう。
入口間際の壁際にあつらえた非常に長い机を見たときには、これはバザールで買い取られハーレムに連れてこられた少女たちが身の回りの包みをまずは置いて、ハーレムの引受人を待っていた所だろうと想像した。
後にトプカプ宮殿のショップで買ったガイドブックで知ったのだが、壁際にいくつもの長い机が置かれていたのは女奴隷たちに食べさせる料理を盛りつけたトレーを置いたところだという。
壁に貼り付けられているのはブルーを基調とするタイルだ。後宮の格の高さと優美さを示している。しかし廊下の床の大部分は黒や白や茶色の素朴な色だった。
父母の手から無理矢理引き離されてさらわれてきた少女たちが最初にこの建物を見たとき、自分の残酷な運命を理解したかもしれない。
建物に入って数十メーターほどの所の壁に、向き合うようにはめ込まれた二枚の大鏡がある。鏡の枠は唐草模様で金箔が貼られている。大人の背丈の倍の高さがある。
この鏡の前に立って自分の容姿、容貌を見て、彼女らは自分がどこまで出世できるかと想像したかもしれない。
ハーレムの入口の領域は太監(去勢された男の宮廷使用人)が管理していてそこから通路は三つに分かれる。左の区域は側室などの女たちの居住区で、中央はスルタンの母親の居住区、右の区域はスルタンの居住区。
太監の出身地はさまざまだが、ある時期には女たちの世話は黒人太監にまかされた。彼らは少年のうちにアフリカのアビシニア地方から連れてこられて教育されたのだ。
女性は合わせて5百人もいた。
暗い屋根に覆われたハーレムだったが、洗濯場は屋外にあった。このようなお日様の見える場所は、身分の低い女奴隷にとっては、このハーレムで唯一気持ちの楽になる場所だったろう。
私たちは他の観光客のあとを歩いて行き、鑑賞するべき重要なポイントを見ていった。
小さな休憩室は皇帝が家族と一緒に舞踊を眺め、音楽を聴いたところだ。そのほかに中規模の休憩室もあった。壁は美しいタイルで装飾されている。窓はステンドグラスだ。
皇帝の生活した部屋は、美しく装飾されている。
女奴隷の逃亡を防ぐため、たくさんの窓はみな格子が付けられている。そのため、見る人は湿っぽいような、薄暗いような印象を持つ。
私たちはテラスに出た。テラスは金角湾に面していて、下の方にプールがあった。しかし現在は水が張られていない。以前には女官たちが泳いでいたという。
当初テラスが造られたころは、床が滑り易かったのだろうか、滑り防止のために、後で、ノミでたくさんの窪み(くぼみ)を刻んだ跡が見られる。
建物の壁がこんなに美しいのに、これらの敷石の加工は雑にできている。
非対照に思える。がしかし、皇帝の生活空間と、女奴隷の生活空間が差があるのは当然のことだ。
しかし、皇帝だって、このテラスで休むこともあっただろう。もしも皇帝がツルリ、コッテンなんてことになったら、それこそ太監の命はない。
私が写真を一枚撮ったら、息子はいらいらした顔をした。見なければならないものはたくさんあるのだ。
私たちは2時間費して庭に出た。
私たちは何を見たら良いかわからなかった。私たちはガイドブックの細かい内容をチェックしていなかった。
私たちは第三庭の入口にやって来た。
第二庭と第三庭の間には幸福の門という名前の門がある。
当時トルコ帝国の地方や外国からきた訪問客は、幸福の門の第二庭側で皇帝に謁見(えっけん)した。彼らは第二庭で馬に乗っていることは許されなかった。
皇帝は幸福の門のひさしの下で臣下と接見した。しかし、外国から来た客や、重要人物との会見は、この門の奥の第三庭にある謁見室で行われた。
この観光スポットにはたくさんの観光客がいた。