ホテルからトプカプ宮殿への近道は、ブルーモスクとローマ競技場・ヒポドローム(三本の記念碑の公園)の間の道だ。
その後アヤソフィヤ大聖堂の北にある宮殿の大門(正門)にいたる。
しかし私たちがトルコに来た第一日目には、その門に自動小銃を持った警備員がいた。その日はトプカプ宮殿の博物館は閉館日だったから閉まっていたのだ。
今日は開館しているのであの門は開いているはずだ。
よく考えれば分かることだがその時は通れないと思い込んで、路面電車(トラム)の通りを歩いて行った。考古学博物館に続く坂道を歩いて、宮殿の第一庭の北門に着いた。
庭に入ると、千人以上の観光客がいた。庭の巾や奥行きは150メートル以上あって、幾筋もの舗装した道があった。
辺りには樹齢何百年もの大樹があった。巨木の下には黒いチャドルを着た産油国の観光客がいて、彼女らはガイドの説明を聞いていた。
リュックを背負った、欧米の若い観光客は気楽に二人、三人と歩いている。
私たちは百メートル以上も歩いて、第二庭入口の儀礼の門についた。
そこには自動小銃を持った二人の警備員がいた。
入場券が買えないので、彼らに「入場券はどこで買うんですか?」と聞くと、一人が百メートルも離れた遠い正門の辺りを指さした。
そちらを見ると、観光客の数が他に比べてずっと多い。
そこには第一庭の城壁を背にした券売所があった。もし私たちがアヤソフィアの近くの大門を通り抜けたならずっと簡単に入場券売り場が見つかっただろう。
私たちは広大な庭の中を行ったり来たりして、大変だった。
入場券売り場には何百人もの列ができていたが、窓口は何個もあって、職員の発券のスピードも速かった。
私は職員に言った。「入場券を二枚と、それからハーレムの入場券も欲しいんですが」
すると彼女は宮殿に入館してから、改めて買ってくれと言った。
今日は小雨が降っていて、気温もそんなに高くはないので、庭の中の移動も我慢できた。
第二庭に入ると私はすぐに左の建物を見つけた。
この建物の券売所の前の列は比較的短くて大体20人ぐらいだった。
ハーレムは面白いところだが、参観には小一時間必要で、大部分の観光客はハーレムのあることを知っていても、充分な時間がないために、見ることができない。
私と息子はハーレムの建物に入った。
帝国時代、大臣たちはバザールでおおむね東欧の国々からイスタンブールに連れてこられた少女たちを買った。
トプカプ宮殿では彼女らにトルコ語、歌唱、舞踏、楽器の演奏を教育した。聡明で美しく成長した少女は皇帝の身辺に仕えた。
とりたてて美しいというわけでなかったり、トルコ語ができなかったり、特技のない女たちは、食物倉庫の管理や、工作室で刺繍をした。彼女らの作品はバザールで販売された。その他、トルコの上流階級に妻として与えられる者もいた。
少女たちの出身地はロシア・ウクライナなどの黒海北部やカフカス地方(黒海とカスピ海に挟まれた地域)、セルビア・クロアチアなどユーゴスラビア地方などで、白色人種が多い。
しかしアラブ系やアフリカ系もおり、どの民族でも、ありだった。黒人、白人など無関係だった。
皇帝が魅力を感じる女性には、出世の機会があった。
もしも一度でも皇帝と同衾すれば、彼女は個室を与えられる。男の子を産めば皇帝の母になる可能性もあった。
逆に言うと、トルコの皇帝は自民族の上流階級の女性に王子の母親になる可能性を与えなかったということだろうか?
皇帝は外戚が政治に干渉してくる心配を排除できたのである。まるで女性は王子の生産の道具のようだ。
このような婚姻体制のもとで、皇帝がお気に入りの大臣やその息子に皇女を嫁がせたり、女奴隷を与えた。その一族は他の大臣よりも政治権力を持つかもしれない。
しかし、多分それも一代限りのことで、皇帝が亡くなると、何人かの王子の中の一人が皇帝に即位する。すると新皇帝は、直ちに自分の兄弟に当たる他の王子たちを殺した。このような残酷な習慣は1603年まで約2百年も続いたのだ。
しかしそれ以後も、3百年間依然として、兄弟同士互いに殺し合ったり、宮殿の一室に幽閉したり、遠く離れた孤島に島流しにしたりということが続いたのである。