私の目の前に立った男性は、年は25ぐらいに見えた。皮膚は浅黒くて髪は黒い若い男性だった。
彼の顔は悲しげな表情を浮かべていた。
そして英語で、「あなた方は二人ですね。いっしょに写真を撮ることができませんね。だったら、あなた方がいっしょの所を一枚撮ってあげましょうか?」
このトルコ人(多分ジプシー〈民族名Romany〉)はホントに親切だなあと思った。
私は息子を呼びとめて言った。
「この人は私たちのために代わって写真を撮ってくれるって、哲ちゃんどう思う?」
息子は、「もしも僕らのカメラを手にして、持って逃げたらどうするの?」と言った。
言い終わると、くるりと反対の方を向いて歩き出した。そこで私は息子の後を追った。
この時、私はジプシーの顔に悲しそうな表情が浮かんだのを見た。
私たちがその男の人から離れてから、息子は、「カメラの中にはフラッシュメモリーが入っているんだよ。トルコの旅行が記録されていて、バックアップも取ってない。だから無くすわけにはいかないよ」
息子の言うことは至極正しい。
もしも息子が私を止めてくれなかったら、どんなことになったか分からない。
しかし、その一方ではジプシーはだれでも悪い人だと考えるのは、正しい考え方とは言えない。もしも彼が本心から写真を撮ってくれようとしていたのであれば、気持ちを傷つけたかもしれない。そうだったらやりきれない。
私たち二人は城壁のそばの巨大なイスラム教寺院を見に行こうと思った。
寺院と半分崩れかけた城壁のあいだの道路の上に何台かの大型観光バスが駐車していた。
たくさんの観光客か巡礼団が、このミフリマフ・ジャーミー(Mihrimah・Camii)に、やって来ているのだろう。ミフリマフはトルコの最盛期16世紀の第十代皇帝シュレイマン大帝の愛娘(まなむすめ)で大宰相リュステム・パシャの妻であったという。
この寺院は1555年に有名な建築家のミマール・スィナン(Koca Mimar Sinan)が設計した。
この建築家はもともとはカッパドキア地方の城郭都市カイセリでキリスト教徒の息子として生まれた。オスマントルコの支配下で、当然イスラム教に改宗させられ、徴兵されて工作兵のような任務に就いたらしい。しかしこれが後の仕事につながっていった。
トルコ帝国に対する貢献は大きく、建築家として90才近くまで働いた。
彼が設計した建造物は、学校、病院、寺院などでその数は477にものぼる。
私はこんなにたくさんの人が、この寺院にお参りするのだから、私たちも見てみる必要があると思った。
あいにく私が見ている寺院の外壁には、建設用の足場が組んであった。見られるかどうか分からなかった。
しかし城壁のそばに、一つの入口があった。今まさに何人かの信徒が入っていく。そこで、大急ぎでスカーフをかぶり、長袖の上着を着た。
二人ともサンダルを脱いで手に持って、階段をのぼり、寺院の建物に入った。
中には何人かの男の信者がいた。一人の信者が私を見て微笑んだので、安心した。その後で、とても小さな部屋に入っていった。
それで私はこの部屋を通りぬけると、大礼拝堂に出るのだろうと想像した。
しかし、先に進んでいた息子が戻ってきて、「入れない!」と言った。
どうして参観できないのか分からなかったが、そこから出ることにした。
「信者の一人が僕に入っちゃいけないと言っているらしいんだ」
信者が礼拝をしているときは、一般の観光客は遠慮しなければならないことになっている。
女性信者は男性信者と一緒に礼拝するとは許されていない。それ以外の理由として、手に履き物を持っていることが、礼拝堂に不浄のものを持ち込む不届きな行為と受け取られたのかもしれない。
私たちは寺院を出たものの、まだどこかに入口があるはずだと思って、寺院の際の道路の上をうろついていた。