園内周遊車は屋根を除いて視線を遮る物はない。
ガイドは私たちに車賃を払うように言った。一人一乗車2リラで合計8リラだった。
牽引車はまるでテーマパークのミニ機関車のような可愛らしい音を立てながら、自転車のようにゆっくりと進んでいく。
車両の中には二列の木製の長いすがある。
出発したときは私は椅子に座っていたが、進行方向右側に古代遺跡の風景が見えると、立ち上がって両足を椅子にもたせかけて、写真撮影を開始した。
一般的に言って、走っている自動車の上から写真を撮ると、ぼやけて撮れるものだ。だが周遊車の速度がゆっくりなので、比較的遠くの景色ははっきりと撮れる。しかもデジタルカメラなので、家のパソコンを使って簡単に露出の修正ができる。
私たちの車は絶え間なく道を歩いている観光客を追い抜かしていく。
彼らの服装は気ままで、ある人たちは水着を着ている。2、3人で連れ立っていく人もいれば、10人以上のグループで幼児までいる。
彼らは一様に車の音を聞くと振り返って私たちを見た。
ガイドは、もしも歩いて行ったら往復40分はかかると言った。こんなに暑い天候の元で、自動車に乗れたのは僥倖(ぎょうこう)だと言えるだろう。
太陽の光が強烈なのに道を行く人の中には上半身裸の人もいる。タオルを頭に乗せている人もいる。
歩いている人たちは私たちを一瞥(いちべつ)すると、すたすたと道を歩き始める。まるで自分達が元気なのを見せようとするかのようだ。
車が二つの大きなアーチでできた門まで来ると、ガイドは運転手に言って車を止めさせた。
このゲートはローマ時代初期の浴場で、後にはキリスト教の集会場になった建築物で、バス・バシリカ(Baths-basilica )と呼ばれている。
ガイドは私たちに車を降りさせて、この半壊した建物の由来について説明した。
私は息子にこの遺跡をバックにして写真を撮ってよとたのんだ。そのあとでまた車に乗って観光を続けた。
右の方には糸杉の生えた丘陵を背後にローマ時代の都市遺跡がある。左側はパムッカレの農村に面した石灰棚がある。
この都市は丘陵の西側の山腹にある。
周遊車は南から北に向かって走っている。
右には石材の周密地帯がある。
私はたくさんの石材でできた櫓(やぐら)の上に乗っている小さな家を見つけた。それらはみんな石棺なのだ。古代都市の北は墓地だった。
車は止まり、我々は下りて、辺りの写真を撮った。
特に興味をひいたのは、墓地の一部分だった。
現在は乾いているが、温泉の水量が多いときには、この辺り北の地方でも水に浸かった。温泉水の中のカルシウムは炭酸カルシウムに変わり、白色の石灰華となって石材や地面、植物などどんなものの上をも覆い尽くしたのだ。
私は石灰華に覆われた石棺とピンクの花を付ける夾竹桃(キョウチクトウ)の写真を撮った。
一般的に言って、ローマ時代には都市の郊外の墓場をネクロポリスと呼んだ。ローマ時代のこの世を去る人たちは、夕日の沈むのを眺められる場所に葬られることを望んだのである。ここはまさに彼らの希望した墓地なのだ。
周遊車に乗っている間、数秒に一枚は写真を撮った。興味のある遺跡が現れるたびに撮ったからだ。
車が歴史博物館の前の広場に戻ってくると、ガイドは私たち二人を古代温泉プールのレストハウスに送ってくれた。
建物の中を通ってプールの際に来ると、ガイドは泳ぎたいですか? と聞いた。
しかし、私は充分な時間がないので(あと80分)、泳がないと答えた。
ガイドは私たちを建物の出口まで連れてくると、集合場所はあっちだよと腕で指し示して教えてくれた。
このようにこのガイドは、私と息子の世話を至れり尽くせりで焼いてくれた。
ひょっとして、日本人の親子だったからだろうか。
かつまた、私がやもめだと誤解していたのかもしれない。というのはイスラム教徒は女の人はご主人といっしょに旅行するものだからだ。