パムッカレは古代から綿花生産地帯だった。
そのそばに石灰岩の丘陵地帯があり、ヒエラポリスと呼ばれている。
テレビのヒエラポリスの紹介番組では、決まって何十もの白い石灰の水盤、水盤にたまった水の青い水面の景色が取り上げられる。
この景色はまるで中国の九寨溝のようだ。
Travertine basinsの意味は石灰華の水盤という意味だ。
それから、ローマ時代の神殿の円柱が倒れ込んだプールの場面だ。
ローマ時代にこの丘陵の上は典型的なローマ都市だった。ローマ帝国の皇帝、軍人、市民がここに温泉療養に訪れた。彼らは劇場で剣闘試合や、歌劇を見たりした。
トルコは地震の多いところで、この都市も不幸なことに地震で被災した。
紀元後60年の地震、4世紀後半の地震、7世紀前半の地震。何度被災しても、ヒエラポリスは復活した。
しかしながら、14世紀にはトルコによってこの都市は占領された。最後の1354年の地震が致命的だった。その後、この都市に住む人の姿は絶えてしまった。
ヒエラポリスは、歴史からの魅力と、自然からの魅力にあふれている。
私たちは昼ご飯の後で、大型観光バスに乗って農村を通り抜けた。
見た目の良くない灰色の丘陵の斜面が目に入った。まるで日本でならば、国道脇のコンクリートで固めた山の斜面といったところだ。あるいは春のスキー場に残った残り雪でも見ているようだ。
私は心の中で、まさかこの白いものが石灰棚ではあるまいなと思った。こんなにみっともなくて、こんなに小さいんだもの。
しかし、バスはこの丘を登っていき、乗客は降り始めた。
7月31日の天気は快晴、非常に暑い。
我々の団体の人数は15人ぐらい。
ガイドは我々といっしょに遺跡の入り口に向かって歩き始めながら、自己紹介をした。彼は割と太った中年の男の人で、カウボーイハットをかぶり、ショートパンツをはいていてる。
彼は拡声器を持っていないが、声は非常に大きい。なかなかの貫禄だ。
あたりはなにも日差しを遮るものがない乾燥した野っぱらだが、枯れ草の野原にも何本かの花が咲いている。
ここに一つ、あそこに一つ、ローマ時代の倒壊した建物の建材が残っている。
私はグループの後ろを進みながら写真を撮った。
ヒエラポリスを訪れる観光客の数は多いだろうが、遺跡は広大なので、歩いている人の姿はまばらだ。ガイドとはぐれる可能性は少ない。
私たちは倒壊した城壁の残っている城門 (城門はビザンチンゲートと呼ばれている)をくぐり抜けた。歩いて150メートルも野原を行くと、木製の遊歩道にぶつかる。
この遊歩道は遺跡と丘陵の斜面にある石灰棚の間にある。私たちは木道の上でガイドの説明を聞いた。
彼は今から自由に観光して下さいと言った。しかし、3時10分までに南入口に集合しなければならない。自由時間は短くて2時間ばかりしかない。
ガイドは、木道より南の石灰地域は靴を履いたままで入ってはダメですよと言った。
私と息子は、石灰棚の中で水着を着て水遊びをしている何十人もの観光客を、木道の上でボーッと見ていた。石灰棚の水位は20センチぐらい。泳ぐことはできない。
もしも靴を脱いで入るとして、どこに脱いだ靴を置いたものだろう。それに、石灰棚の景色は魅力がなかった。青い水をたたえた水盤もなかった。蘚苔の増殖を防ぐために給水制限をしているためだ。
ガイドはここで遊びますか? それとも遺跡を見ますか?と聞いた。
そこで私は、ローマ遺跡を見たいんですと答えた。
私と息子、小さな女の子をつれた夫婦 (今朝、同じミニバスに乗った家族連れ)とガイドは、いっしょに百メートルの木道を歩いて、2、3台のバスの止まっている広場に着いた。
広場の周りには建物があった。
ガイドが幌(ほろ)のついた自動車(園内周遊車)を指さして、私たちに乗りたいですか? と尋ねた。
こんな暑いところではいつもなら逃げ腰になる私だったが、この時は即座に答えたのだった。
「乗りたいです!」
ここまで来てヒエラポリスを見ずに帰るわけにはいかない。