野外博物館を見たあとで、私たちはミニバスに乗って、名前の分からない乾ききった、ある一つの村を訪れた。
 ガイドは私たちに、半時間くれた。
 太陽光は強烈で、目の前の坂の上の白い巨石には、たくさんの穴が空いている。あるものは農家の入り口で、あるものは教会の入り口だ。
 目の前にあるものは巨石と白いコンクリートの立方体の結合したものだった。
 乾燥した地表の野草はみな枯れている。
 地中海地方では冬に雨が降り、夏は降らない。
  
 私たちから数十メートル離れた建物の外に室外階段がある。
 何人かの観光客が洞窟の中に入っていくのが見えた。
 しかし、私も息子も、あんまり疲れているので、動きたくなかった。
 だからすぐにガイドのいるところに戻った。ガイドはここで待っていると私たちに言っていたのだ。
 そこには果樹が植わっていて、日陰がある。
 ガイドはベルギーから来た女性と話をしていた。
 白いスカーフを頭にかぶった女の人が一人、オレンジジュースを作っていた。
 彼女は私たちの目の前で、圧搾機(あっさくき)を使って半分に切ったオレンジを手ずから搾(しぼ)ってグラス一杯のジュースを用意した。
 私はこの地方は農作物が豊富なんだと感じた。
 息子は木陰で一人休んでおり、私は粗末なみやげ物屋をのぞいた。価格はイスタンブールより少し安い。
 そこで私は青いガラスでできた目玉の形をした魔除けをいくつか買った。
 この村にいったいどんな特別な見所があるのだろうか。
 結局分からずじまいだった。
  
 今では、この村は多分5世紀に建てられた東ローマ時代の農村チャウシン(ÇAVUŞİN)だと思っている。
 ガイドブックによると、岩石が浸食して危険になったため1950年に放棄された。私がここを訪れてみたときにすごく凋落していると感じた。
 道路の草は枯れているし、小石がごろごろしていた。
 ガイドブックによると、村内には聖ヨハネ教会と女子修道院、イスラム寺院があるという。
  
 インターネットで調べてみるとトルコとギリシアが領土を争って戦争をした歴史がある。
 ドイツ皇帝とトルコ皇帝は仲が良好で、そのため第一次世界大戦では両国は同盟関係にあり、連合国(イギリス・フランス等)に対して、一緒に戦った。その結果負けてしまった。
 トルコの国力が衰えたのを見ていたギリシアは1919年、トルコのアジア地方(エーゲ海に面したイズミール)に侵攻した。
 その結果、ギリシアはビザンチン帝国が衰退していったときに失った同一民族同一宗教の人々の住む地方を奪還するのに成功したのである。
 トルコはギリシャの要求を飲んだのだが、ギリシャはさらに奥まで侵攻したので、トルコは必死になって抵抗した。
 その結果1923年に国際社会がイズミールをトルコに帰属させることを承認した。
  
 この後、トルコはギリシャと住民交換する条約を締結した。
 インターネット上のある記載では、ギリシャ語の話せないキリスト教徒 (イズミール・黒海南岸・カッパドキア)150万人と、トルコ語の話せないイスラム教徒(ギリシャ)100万人が全くなじみのない外国に移民させられたのだとある。
 そのためカッパドキアにはいくつもの、およそ百年もの間、見捨てられ荒廃した村落がある。
 多民族、多宗教の国家はどの国も苦難の歴史を抱えている。

 

駐車場へ歩いて行く観光客。
欧米系の老夫婦は仲が良い。

カッパドキアの凝灰岩大地

カッパドキアの荒廃した村チャウシン。
聖ヨハネ教会や女子修道院、
モスクが残されている。

修道院の鐘撞き堂

オレンジジューススタンド

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