旅行社に着くと、社長は言った。「僕は家に帰ります」
社長は疲れているようだった。社長は入り口に水を撒いている若い衆を見ながら言った。
「日本語話せないんだよね、英語も話せないし。だけど、乗る車を教えてあげられるから」
私は社長が若い衆を見る様子から、その能力に満足していないことが見て取れた。
私たちの会話は日本語を使ったので彼は会話の内容に気がつかず、モップで床板を磨き続けている。
20歳(はたち)そこそこの若い男性で、背は高く髪は茶色の美男子で、たぶんトルコ系ではなく東欧系だろうと思われる。
社長は私たちに旅行社のトイレを使いなさいと言った。公共浴場に行く時間が無いので、濡れタオルで体をキレイにしたらと勧めたのだろう。
あるいはトイレの目立たぬ所にシャワーがあったのかもしれない。
ソファーで車を待っていると、街頭からときおり警笛が響いてきて、私はその度に立ち上がっては外を見に行った。時刻はすでに6時20分を過ぎている。
私たちは荷物を持って外で車を待った。
若い衆が呼んだ。
ようやく白い小型バスが来ていて、彼と息子で二つのスーツケースをトランクに収納した。
バスには4、5人の欧州の観光客が乗っていて、小さい女の子や女の人もいた。このバスは夕方の歴史地区をゆっくりと走っては止まり、客を拾って走った。
たくさんのビルの入り口前には必ずと言っていいほど屋外のカフェがある。
カフェの床は地面より高くて絨毯が敷いてあり、長い木製の椅子にはトルコ独特の味わいのある織物が掛けてある。客はくつろいだ様子で話に興じている。
私は眼鏡を掛けた中年の男性に尋ねた。
「カッパドキア(Cappadocia)に、行くんですか?」
と彼は、「我々はネムルト(Nemrut)に行くんです」と答えた。
彼は小さな女の子と奥さんを連れていた。彼らの目的地は私たちとは違うようだ。
ミニバスはとうとう歴史地区の丘を下ってマルマラ海の海岸の公園に着いた。
運転手は私たち乗客を降ろした。
他の観光バスに乗り換えるようだ。しかし、運転手はどの車に乗るのか、いつまで待つのか、何の説明もしない。
公園の海辺を散歩する人がいる。
私は海辺に行きたかったが、2、3台の観光バスのそばに立って待っていなければならなかった。
バスを降りた観光客は思い思いに地べたに座ってパンを食べたり互いに情報交換していたりした。
大概の人は大きなリュックを担いできており、スーツケースを持ってきている人はいない。
息子は地面に座って数学の宿題をやっている。
私はすることがない。
30分も過ぎた頃、乗車前にトイレに行きたいと思った。日本の観光団が利用するバスには大概車内トイレが完備されている。しかし、旅行社の社長によると、トルコの普通の公共交通バスにはトイレはないとのこと。
3、4人のトルコ人の運転手たちが立っておしゃべりをしていたところに近づいて尋ねた。
「Where is a toilet? (トイレはどこですか?)」
ひとりの若い運転手が「カッパドキア 」と言うなり他の運転手といっしょになってハッハッと大笑いした。運転手はみんな黒い髪のトルコ人男性だ。
私は、彼らはみんな私の質問の意味が分からないんだと思った。そこで、もう一度、尋ねた。「Where is a toilet ?」
同じドライバーが言った、「カッパドキア!」