イスタンブールに来た最初の晩、私はホテルでスーツケースの中身をより分けた。アジアサイド(トルコは海をはさんでヨーロッパ側とアジア側にまたがっている)に旅行する間、旅行社で預かってもらう分と、持って行く分だ。
私はとても面倒くさかった。
息子はすでに寝てしまった。
10時半頃になると突然、拡声器を使った男性の大音声が聞こえてきた。これはイスラム教寺院が礼拝を呼びかけるアザーンといわれる放送だ。節回しには中東の香りがして歌を歌っているような美しさだ。
呼びかけ(アザーン)は数分続いた。この面白いアザーンを息子に聞かしてやりたかったが、息子はまさに熟睡しているところで、起こすのはやめておいた。
二日目になった。(7月28日)
早朝の5時のイスラム寺院のアザーンで目が覚めた。朝ご飯のあとで私は一人でホテルの近くを散歩した。息子は部屋で休んでいた。
8時半になると、スーツケースを旅行社で預かるために、車がホテルにやって来た。私はすぐにでも外に観光に出たかったが、旅行社の若い衆にオフィスに連れて行かれた。
私たちが車に乗ると、3百メートルそこそこ離れている旅行社に、昨日はあんなに苦労してたどり着いたのに、あっという間に着いてしまった。
社長は私たちに航空券や観光バスのチケットや保険証をくれた。
今日の午後6時にまた旅行社に戻ってこなければならない。旅行社が私たちをバス停まで送ってくれるからだ。午後7時が観光バスの出発時間だ。
そこでアヤソフィア大聖堂を見に行こうと思った。
(昨日は入り口の入場券の列の観光客が多くて、入るのをあきらめたのだ。)
そのあとで行くところはまだ決めていない。
旅行社からアヤソフィア大聖堂へはブルーモスクに面している3本の記念碑の立つ広場を突っ切って行った。
たくさんの観光バスが来ていて観光客の数が多い。
私たちは列に並ぶのが嫌なので、急いで歩いた。
入り口にはすでに列ができていたが、たかだか30人ぐらいだ。私はクレジットカードで入場券を買った。大聖堂の庭には数百人もの観光客がいた。
しかし、聖堂の入り口付近の空間は広いので、そんなに混んでいるというふうには感じなかった。
入館する前に、大聖堂の全景を目に納めようと見上げたが、写真を撮ろうにも尖塔は高すぎて、カメラには収まらなかった。
まず足を踏み入れたのは回廊部分だ。
石畳の大理石はすでに摩耗している。
この聖堂はもともと、コンスタンチヌス大帝がこの地を遷都した後、その息子のコンスタンチウス二世が西暦360年に建立(こんりゅう)したものだ。それが何度か火災に遭って焼失したのをユスティニアヌス一世が西暦537年に再建した。
東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代、この聖堂はギリシア語でハギア・ソフィアと呼ばれた。
コンスタンチノープルが15世紀にオスマントルコによって陥落したとき、この大聖堂もまたイスラム教徒の手に落ちた。
しかしトルコ皇帝メフメト二世はキリスト教のモザイク画を漆喰で塗りつぶし、イスラム教らしい尖塔を建造してイスラムの寺院に改装してしまったのだ。その後16世紀の皇帝はさらに2本の尖塔を造らせたので、現在は4本の尖塔がある。
そのような歴史を経たために、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代とオスマン帝国時代を合わせて約一千五百年の間に、たくさんのローマ人やトルコ人がこの聖堂にお参りに来て石段はすり減ってしまったのだ。
トルコ共和国となった現在は宗教施設ではなく博物館になっている。
聖堂の中は参観者の声がこだましている。大ドームは高さ56メートル、直径33メートル、巨大な聖堂の内部は薄暗い。
明るい部分と言えば、見上げる遙か高みに小さく見えている大ドームの窓と、メッカの方を向いているミフラーブの上のステンドグラスの窓のほかは、古風な数個のシャンデリアだけなのだった。
シャンデリアの枠にはしたたり落ちそうな水の滴(しずく)にも似た透明ガラスの電球が、一重(ひとえ)のリング状に連なってぶら下がっている。
外の気温は30度以上だが、聖堂の中はひんやりとしていた。