私たちが博物館を出た頃には、空は晴れた。
 アヤソフィア大聖堂を通り過ぎ、ブルーモスクにやって来た。イスタンブールに来た最初の日に、ブルーモスクを見に来たことを思い出した。あれは7月27日だった。
 今日は8月5日、すでに9日がたっている。
 私と息子は、三本の記念碑の公園(正確にはローマ競技場跡)に面した正門からブルーモスクに入った。この前来たときはこんなにたくさんの人はいなかった。
 しかし今は、たくさんのトルコの若い女の人が芝生に立ったままでおしゃべりをしていた。多分彼女らは地方からイスタンブールに観光にやって来た女学生だろう。
 彼女らは欧米の若い女性を囲んで、自分たちの英語が通じるか試しているところだ。面白い話題だったのだろうか、彼女らは笑いこけた。
 学生たちも、欧米の女性も会話を楽しんでいた。彼女らの交流を見ている私も幸せな気持ちがした。
   
 この時、息子が気が急くように言った、「ホテルに帰ろうよう!」
 そこで、私たちはローマ競技場跡を通りぬけて、ホテル街に近づいて行った。
 あるビルの角に若いトルコ人男性がいて、私に料理のメニューを見せた。
 この時初めて泊まっているホテルのこんなに近くに、中華料理店があったのだと気がついたのだった。
 彼のそばには60才ぐらいの日本人男性がいて、彼は私といっしょにメニューをのぞき込んだ。
 メニューの中には写真があり、価格は4ユーロから10ユーロだった。比較的安い。
 私は、「まあまあ安いですね」と言った。
 日本男性は、「いいんじゃない? ぼくは船で今日来たところですよ、ベニスから」と言った。
 私はエーゲ海周遊の客船がトルコに停泊するのを知っていた。私たちはクシャダスで地中海クルーズ豪華客船を見ていた。
 しかし、日本の観光客がクルーズ客船を利用しているとは知らなかった。(帰国後知ったのだが、最も格安な旅行費用の場合は、航空券も含めて船賃は全部で25万円だという。)
 私は豪華客船で観光にやって来た旅行者がものすごく羨(うらや)ましかった。
 見るところ、この日本人男性は同伴者がいないらしい。彼は退職後一人で海外旅行に来た人のように見受けられる。奥さんはどこにいるのだろう。日本の家でボンヤリしているのだろうか?
 私が日本男性と話をしているとき、息子は待っていなかった。一人でホテルに帰ってしまった。この時、どうして息子がホテルに帰る必要があったのかわからなかった。
 私は、特にその人に別れの挨拶をするでもなく、ホテルに帰った。
   
 息子は言った、「ついさっきは、トイレに行きたくて一刻の猶予(ゆうよ)もなかったんだよ。母ちゃん、今日の晩は、ホテルの屋上レストランで飯食おうぜ!」
 息子は、前に食べて気に入ったレストランでまた食べようとしているなと思った。
 そこで私は息子に勧めた。「さっき私が見つけた、あの十字路のビルの角ね、中華料理店なんだよ。メニューにラーメンとか、餃子とか、チャーハンなんかがあったよ」
 息子はラーメンがすごく好きだ。
   
 トルコに来て以来、私たちは夕方散歩する時間がなかったが、今日は余裕がある。私たち二人はホテルの前の石畳の坂道をゆっくりと登っていった。この坂道を通り抜ける自動車も少ないようだ。
 ホテルの傍らのビルの一階は店だったのか営業していた。
 通りがかりに注意してみると、路上には土産物のスカーフを吊した商品棚が置いてある。
 ホテルの近くの何棟かのビルは、多分、ホテルなのだろう。しかし、窓はみな小さい。建物の中に人がいるのかどうかも分からない。
 この旧市街地のビルはみんな古い。近代的な高層ビルのような間口の広いショウウィンドーもない。
 例の中華料理店のビルには、半地下があった。レストランは一階で、フロアの高さは道路を散歩している私たちの肩の辺りだ。
 ガラス窓を見上げると、すでに食事をとっている客の姿が見えた。

スルタンアフメット通りまで帰ってくるとローマ競技場に入る手前に美しい建物を発見した。これは19世紀にドイツ皇帝ウィルヘルム二世が送ったもの。

ホテルの窓からマルマラ海の方角を見る。

ヒポドローム(ローマ競技場)のドリンクスタンド。

あれはどうも寄宿学校ではないだろうか。夏休みで学生がいない様子だ。例のビザンチン時代の城壁を土台にして立っているのではないか。

このホテルで朝な夕な鳥の鳴き声を聞く。どうもあの屋根の上に巣くっているカモメたちの声のようだ。イスタンブールの音というのはカモメの鳴き声だ。イスタンブールは海辺の町だと気づかされる。

ページの先頭へ↑書籍公開に戻る

Copyright(c) 2015 トルコ旅行記 All Rights Reserved.