午後には私たちは聖母マリアの終焉(しゅうえん)の地に行った。
 キリストが殺されてから、母親のマリアは使徒の一人とこの地方に来て、ついにここで亡くなったのだ。そこで現在はカソリックが、カソリックの聖地の一つに認定している。
   
 車は果樹園のある丘陵を上っていった。
 丘の上には生活臭のある民家は一軒も見あたらない。まるでどこかの庭園に来たかのようだ。あちらこちらに樹木や石造りの平屋がある。
 ガイドは私たちに自由参観の時間をくれた。夏の真昼で暑いし、私たちは屋外で活動するなんて思いもよらなかった。
 しかし、50メートル以内に、見るべき建物はあった。
 建物のそばには古代の井戸があるが、現在は水はない。キリスト教徒は敬虔(けいけん)な様子で建物に入っていく。
   
 私はキリスト教徒ではないが、子供を亡くした母親の気持ちを想像した。マリアが本当に自分の子供が復活したと信じていたのか分からない。信じていなかったとしても、彼女には信徒たちについて行く以外の選択肢はなかった。
 マリアの家の外にある石垣に座って、聖母マリアの心中を表現する短歌を詠もうと試みる。
 右手の指を折って、歌の音節の数を数えながら、詩をよんでいた。
 と、突然、ガイドが私の所へやって来て、質問した。「あなたはもしかしてキリスト教徒ですか?」
 私はためらってしまった。
 というのは、私が30才の頃は毎週日曜礼拝に行っていたことが半年ほどあったからである。
 それに息子はルーテル教会の幼稚園に通っていたし、メソジスト派のミッションスクールの高校で勉強しているからである。
 しかし私はキリスト教徒ではない。
 ここでガイドに細かい来歴なんか説明するのは面倒だ。
 だから、私は、単刀直入に言った。
 「No!  I make a poem now. (違います! 私は詩を作っているところです。)」
 私が詩を読んでいるところは、まるでマリア様にお祈りをしているところのように見えたのだろう。
 ガイドは苦笑して帰って行った。
 そばに座っていた息子は、「母ちゃんが詩を読むなんてさあ、俺に言わせたらお笑いぐさだね。いったいいつから母ちゃんはキリスト教徒になったんだい?」と言った。
 しかし、私は息子を連れてマリアの家に入った。
   
 小屋の中はまるで小さな礼拝堂のようで、石造りの平屋の内部は真っ赤な絨毯(じゅうたん)が敷き詰められていた。
 石壁の前にはマリアの像が置かれていた。
 私は息子に言った。「いっしょにお祈りしようよ!」
 ところが息子は、「俺はしないよ!」
 「どうしてなのよ? あんたは今教会の高校で勉強しているんではないの!」
 私たちの言い争う声が、静かな室内にこだました。
 突然、神職の男性が一人やって来て、「ここで話をしてはいけません。他の人の迷惑になります!」と言った。
 私はもう何も言うことができず、息子は礼拝堂を出て行ってしまった。
 恥ずかしかった。

 外へ出ると、息子は車に戻りたいと言ったので、私一人で院内を見て歩いた。

以前にも見た風景。ペルガモンに行ったときか?

聖母マリアはキリストの死後、使徒の一人を頼ってここに住んだ。マリアの終焉の地である。これはマリアの井戸、残念だが水は涸れていた。蓋を開けた地中にあるのかもしれないが。

マリアの家に向かう。
夏の午後二時頃。酷暑である。

マリアの家はカソリック教徒にとって聖地のようである。黒服の神職が見張っていた。

マリアの家のある丘を下る。
あたりは一面の果樹園。

オリーブ畑

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